やってみて
どうだった?
旅する演出家
聞くひと
中谷
別のインタビューの中で世莉さんが稽古や通しの前に「今日のテーマは?」ってよく聞くよね、ということについて伺いました。
黒澤
はい。
中谷
これとほぼ対になる言葉として、世莉さんは「やってみてどうだった?」って稽古や通しの後によく俳優に聞くことが多いと思うんですね。
これはもちろん文字通りやってみてどうだってことを聞いてらっしゃると思うんですけども、こうやって聞き始めたのは何でですか?
黒澤
聞き始めたのは、なんでなんだろうね……。
おそらく一番大きく影響を受けてるのは僕の師匠の
さんが のワークショップをするときに、みんなに「やってみてどうだった?」って聞くというところから始まってる気がするかな。中谷
じゃあ元々は柚木先生がよく仰っていたことをそのまま世莉さんも吸収して「世莉がよく言うこと」になったという感じですか?
黒澤
そう、そうですね。
中谷
ということは「今日のテーマは?」という言葉と必ずしもセットである訳ではないんですね。
黒澤
そうだね、セットにもなりうるだろうけど、セットだっていう風に自覚して使ってることはあまりないかな。
中谷
世莉さんの中ではどういう意図で使われることが多いですか?「やってみてどうだった?」という言葉は。
言語化はお好き?
黒澤
さっきも「言語化が大事だっていう話」があったんですけれどもね。(※「黒澤世莉のよく言うこと」別記事「今日のテーマは?」参照のこと)
弥生さんて、自分がやったことを俳優として言語化していくっていうことって好きですか?それとも苦手ですか?
中谷
苦手ですね。
黒澤
そうなんだ。
中谷
苦手、だから人から聞かれないとあんまり考えたくない…。でも一人だと考えたくないから考えなくなっちゃうので、聞かれることによって自分で頭の中で整理して、それを言葉に出して改めて自分でも「あ、私そういうふうに考えていたんだ」て気づく、というような作用があって、すごくいいなと思います。
そもそも言語化することが苦手なんですけど、人からそれを聞かれることによってやらなければいけない作業になるので、すごくありがたいなと個人的には思っています。
黒澤
よくわかりますよ。聞かれたら人間、答えなければいけなくなるからね(笑)。
それ、すごく重要なポイントだと思っているんですよね。人から聞かれることでそれについて考え、答えざるをえなくなるっていうことが大事で。
取り組まざるをえなくなるということによって、今まさに弥生さんが言ってくれた
「あ、私ってこんなことを考えたり感じたりしてたんだ」っていう気づきが生まれるということがあるんですよね。
これは別に演劇と関係ないところでも、例えば家族と喋ってて「なんかすごいイライラすんな」と思ってワァー!!っと「出かけるときは家の鍵ちゃんと閉めてって言ってるじゃん!!」って言った時に初めて「あ、私この人の鍵かけてくれないところに腹を立ててたんだ」と気付く、みたいなことは誰にでも経験があることだと思うんですよね。
言葉にしないで自分の中でモヤモヤさせたりクルクルさせたりしていると明確にならなかったものが、相手に伝えるために言語っていう意味を持たせることで、自分の中でも明確に捉えられることがあると。
もちろんいいことばかりじゃなくて、余計な事を言っちゃうこともあるし、言葉にしたことが全然ズレてしまっていることもあるんだけども、リスクを取らないと自分の思考っていうのを発展させるのは難しいと思うんですよね。
それに間違った事を言っちゃった場合って、後で気づいたりするものなので。
例えば俳優として演出家と「今やってみてどうだった?」という話をしていたときに、「全然うまくいってないなって思って、なんかもっとパワフルにやった方が良かったと思ってるんですよ」って言った後に「なんかちがうなー?」って思って、人の稽古を見ているときにふと「あ、さっきのあれはちゃんとパワーはあったんだけど、その表現の仕方で”悲しい”を選んだからなんだかしっくりこなかったのかもしれない」ということに気づいたりする。
そういうのって自分で言葉にして他人に伝えたことで「ちょっと違和感残ってんな?」みたいなことを思ったりして、また思考が発展したりする事に繋がるんだと思うんですよね。
自分の中でぴったりくる言葉が見つかるにせよ見つからないにせよ、言語化っていうことを通じて自分に起きていることを自分で客観的に把握する。それを他人と共有できるように出力できると、いいことしかないじゃないですか。
自分を客観的にみられることで成長の礎になるし、一緒にコラボレーションしながら作品を作っていく周りの俳優、演出家、スタッフとかと「私はこういう風に考えてこうしている」「なるほど、だとすればもっとこうでは?」「あるいは…」みたいに、限られた創作のための時間の中で建設的にコミュニケーションを積み重ねていくことができるようになる。
そういうことも言葉にして相手に伝えることで可能になると思うし、いいことだらけなので「やってみてどうだった?」っていうことを聞いているところはありますね。
「やってみてどうだった?」2種
中谷
なるほど。世莉さんは「やってみてどうだった?」という言葉を、私の感じる限り2種類のパターンで使ってらっしゃると思っていて。
別の回で「振り返り」というインタビューを行いましたが、あれはたとえば通し稽古をやってみて「振り返りをしよう」といって全員でそれぞれ自分の感じていること、トライしたことを言語化して他者とシェアすることによって課題を再確認したり、次へのステップを見つけたりするっていう時間だと思うんですね。
そこで「やってみてどうだった?」ってある種ざっくり聞かれるパターンと、話している中で「こうだったけど、こうなってしまって、それはこうだと思うんですよね」という話をした時に、「じゃあそれはやってみてどうだったの?」って、もうひとつ突っ込んで聞かれるパターンがあると思うんです。
全体の感覚で聞かれることと、 細かなことに対して「じゃあトライしたあなたはどうだったの?」って突っ込んで聞かれることがあるなぁと思っていて。
これはどちらも基本的には同じ意図で、世莉さんのなかでもう少し言語化してもらった方がいいなと思った時にはさらに突っ込んで聞く、みたいな使い方ですか?
黒澤
ざくっと聞く時と絞り込んで聞く時って結構明瞭な違いがあって。絞り込んで聞く時はその人のセンターピンていうか、ダーツのブルっていうか、今課題の核心に近づいてるんだろうなって思うから、そこをより良くするっていうことを意図して尋ねることが多いんじゃないかな。
課題って単純に、自分でうまくわかってないところとかモヤモヤする所をクリアにすることで、ほぼ解決するんですよね。
ある程度関係ができて核心めいたところへ近づけるなって思った時には、…なんて言ったらいいんですかね、見えるんですよ、なんかこう、ぼやぼやぼやっとしているものの中の核みたいなものが(笑)。
なので「これだな」って思ったら、そこをチョン!って触りにいくみたいな感じです。…言ってることわかります?(笑)
中谷
なんとなくは分かります…。
それってたまに思うんですが、特に世莉さんとの関係がまだそんなに構築されてない初期の段階で結構感じていた事でもあるんですけど、今仰っていたみたいに「ここ核心っぽいな」というのでピンって突いていらっしゃるつもりなのかもしれないんですけど、「ちゃんと正しいことを言わなきゃいけない」と感じて若干追い詰められる時があって。
結構プレッシャーなんですよ、それって。私がチキンだからなのかもしれないですけど…(笑)。
「核心を突かれている」っていうことが、自分としても(無意識かもしれないけど)すごくわかるんですよね。
なので「求められている答えを言わねばならない」とか「私の中の正解をきちんと適切に伝えねば死ぬ」というマインドになっちゃうことがあって……。これって一言で言うと「プレッシャーを感じるなよ」「そんなに気負わずにやりなよ」、みたいなことだとは思うんですけど。
継続してながく信頼関係を築いたメンバーだけで稽古してるのであれば良いと思うのですが、出会ってからの歴が浅かったりするとそこで折れちゃう人もいなくはないのかなぁと。
その核心を突き合う時って、お互い「ビシビシ!!」ってなりがちだと思うんですけど……どうしたらいいですかね?(笑)
黒澤
どうしたらいいんでしょうねぇ…。
僕も自分の中で明確な答えがあるわけではなくて。
例えばそういう事って、演出家の方が俳優よりも権力構造として上にいることが多いので、一歩間違えばハラスメントになりかねないケースもある。なので非常に重要なことを弥生さんは提言してくれていると思っています。
おそらく理想的には参加者全員、演出家の僕も含めて安全な場所っていうことを確信できて、そこではどんなことを言っても自分は許され許容されるー相手の尊厳を傷つけない限り、ですがーそして守られたところにいるという安心感を醸成し、保証することが最も大切だろうとは思います 。
うまくいっているかどうかはおいておいて、僕はいつもそういう場を作ろうと思っています。その範囲の中で或る程度のプレッシャーを感じた上での自分の核心との向かい合いっていうのは必要なんだろうなとは思います。
そこってちょっとグレーなことも多いと思うんですよね。俳優さんからしたらそうしたプレッシャーの中での核心との向かい合いを必要なことと理解してやるっていうことと、「なんでこんな事までやらされなきゃいけないんだ」という間のグラデーションって、判別しにくいところもあるんだろうとは思います。
創作の場のルールのススメ
黒澤
それについて二個思うこととして、まず俳優さんが自分の身を守ることとしては、まず言いたくないことは「それは言いたくないです」って言う権利をちゃんと持ったらいいかなと思っています。
ちょっと話はずれてしまうけど、例えば創作の中で「やってみてどうだった?」ということを話していく中でも、自分の経験の中でみんなにシェアしてもいい部分とシェアしたくない大切な部分っていうのはあると思うんです。触れられたくない部分というのは誰にでもある。
シェアしたくない大切な部分を無理にその場でシェアしろとは僕は言わなくて、それはどんな演出家も強制するべきではないと思うし、俳優の自主性に委ねられている部分だと思うんです。
だから俳優として、創作の場でも「それは嫌です」ということを言える、言ってもいいっていうことを分かっていると色々やりやすいのかなとは思います。
「正解を言わなきゃ」と思ってしまうことというのは、僕もそういう風にプレッシャーを感じることはあるけど、そこは失敗したらイェーイ的に乗り切ってほしいなと思ったりはします(笑)。
たとえば自分の家族の大切な思い出とか、自分の中の本当に傷ついた苦しみを無理やり共有しろというのは暴力ですし、NGだってルールを作る。そのうえで、自分が選択できる主体性の中で、創作の上で自分と向かい合うプレッシャーというものがあるのだ、と考えておいていただけると、すこし楽になるかなと思うというのがまず一つ。
もう一個が、僕がそういう場をつくれているかということとは別として、創作の場では演出家も同じリスクを背負っていると思うんですよ。
俳優から「何であなたはこれを求めるんですか」とか、「これは本当に必要なプロセスですか」とか、「この演出についてはこういう風にした方が伝わるんじゃないですか」とか、そういうことについても本来演出家は俳優から聞かれていい立場なはずなんですよね。
なぜなら創作の場は本来対等であるべきだと僕は思っているから。
だから核心を突っ込まれて苦しむのは俳優だけではないとは思っています。
現実の問題としては権力の傾斜があるから、演出家がそういう立場になる事って少ないかもしれない。現実問題としてそうは思ってるんだけれども、そのリスクが俳優と演出家で本当にイーブンな状態っていうのが、一番クリエイティブな状態なんだろうなとは思っているし、そういう場を作れたらいいなって思ってます。
これ答えになってますかね…?
中谷
なってます、私の中ではなってるなって思いました。
世莉さんと一緒にクリエイションを進める中で、たとえば「この台詞こうですか?」「本当にそういう演出意図でいいんですか?」みたいなことを話し合えたことは自分自身の経験としてあるので、今の話を伺ったときにたしかに対等な立場で作品をつくり上げていくことは可能だなと感じました。
とはいえいろいろな俳優がいれば演出家もいて、立場上何かを何か聞かれた時にどうしても委縮してしまうと感じる時とか、なにか聞かれたときに「この答え如何によって私は評価されるな」という風に感じてしまうことはまだ多々あるので…。
でもそれは相手との関係性もあるかもしれないですけども、たとえば自分の勉強の仕方だったり、鍛錬を積んでいく中でどれだけ今の自分に自信を持ってその場に臨んでいることができるか、ということによっても左右されるなと思いました。
なので俳優としても、もっと事前にいい準備ができるんじゃないかなという風に改めて自分を顧みながら感じていました。
黒澤
安全な場で、いろんなことをざっくばらんにみんなで共有できるときっと豊かだよね。
中谷
そうですね。そういう現場をみんなで増やしていきましょう。
黒澤
いきましょう!
中谷
ありがとうございました。